私は年間数百本も見るような、
いわゆる映画マニア ではありません。
ただ素直に映画を楽しむファンの一人です。
この度、そんな私の良き友人達(映画作品)を
ご紹介する機会を頂けた事は、
大変嬉しくありがたい事だと思っています。


記念すべき初回、選んだ作品は「初恋のきた道」
(中国・チャン・イーモウ監督) であります。
ここ2,3年のうちでは私の中のベスト1。
生涯心に残る宝物のような作品です。

父の葬儀の為、帰郷する一人息子、
中国の片田舎、冬景色、そこに一人残された母。
その村では、亡き人がわが家路を忘れぬようにとの願いから、
村人が棺をかついで家路をたどるという、
いわゆる葬連行列のしきたりがある。
しかし、時代の流れ、この村でも若者が
都会に出ていてかつぎ手がいない。
やむなく村長も一人息子も葬列をあきらめようとするのだが…
ここからこの息子を通して父母の初恋物語が語られてゆく。
この作品では現在のシーンを白黒でうつし、
過去のシーンをカラーでみせる。

画面がカラーになってすぐ、
主人公である若き日の母ディ(チャン・ツィイー)が登場する。
その可憐な美しさ、
ういういしい表情、
私はたちまち彼女に恋してしまった。
そして何故か涙ぐんでしまった、
スクリーンの彼女を追いかけているだけで…。

上映中何度も涙がにじんだ。
結果、私はこの作品に心を奪われ、
三度映画館に足を運んだ。
しかも3度目には不覚にも、
こらえきれず、
嗚咽の声をもらしてしまいました。
ディという主人公の、
その頑固なまでのひたむきさ、
一途な愛の深さに私は心を打たれたのです。

一体このひたむきさはどこから生まれてくるのか?
人が異性を好きになる事に理由はいらない。
愛する人へのひたむきな想いも
発こそうとして発こせる訳ではない。
それは訳もなく胸の底からわきおこってくるものではないだろうか、
つまり
“発(お)こす”ものではなく
“発(お)こる”ものなのだ。
それは信心についてもまったく同じ事ではないだろうか。
この私が、神や仏を信じようとして信ずるのではなく、
何かしら目に見えぬ働きに衝き動かされ、
信ぜしめられる、
信じずにはおれない
といった心がおこってくるのだと思うのです。

恋愛感情も信仰心、
宗教心も共に授かった心と言えるのではないだろうか。
それではその心はだれから与えられるものでしょうか?
それは私たちの側から言えば、
ただ不可思議としか言いようのない働き、
しいて言えば “純粋意欲”とでも言うべき
ひたむきな働きであります。
この働きは私達の身の周りの人さまの
言動などを通してあらわれ、
私たちに伝わり与えられるのであります。

この「初恋のきた道」ではディが初恋の人であり
教師である夫を通して、
この大いなる働きにふれたのであります。
彼女は、夫が生徒たちに読み聞かせる声、
校舎に響く朗々たる声をひたすら聞き続けた。
この声こそは、まさに大いなる純粋意欲の名のりであった。であればこそ、彼女は40年間、1日も欠かさず、
決して飽きることなく聞き続けられたのであります。

人は純粋でひたむきな心にふれた時、
心ふるわせる。
そして生涯、その心は壊れることがない。
何故ならその心は賜った心であるからです。
純なる心の呼びかけに応えるものは純なる心であります。
よって、彼女は賜った純なる心をもってひたすら聞き続けたのです。

「初恋のきた道」は私にとって、
純粋意欲の表現をえがいた作品であると受けいただいております。
それ故、何度見ても心ふるえ、いつ見ても新しいのです。

合掌   

※編集部より - 映画「初恋のきた道」について
もっと知りたい方はこちらへどうぞ→ Sony Pictures Online