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 第一回
平成14年4月
初恋の来た道

 

第二回
平成14年5月
家族

第三回

『私が女になった日』
(2000年イラン マルズィエ・メシュキニ監督作品)

イランというイスラム社会の国に暮らす
三世代の女性(少女、成人女性、老女)
それぞれが主人公の三つの話から成るオムニバス映画。
無常迅速の風が全篇に流れ、
主人公たちの一生を追い立ててゆく非情さ。
男女隔離社会に閉じ込められ、
自由意思を持ち得ない女性たちの幸せのありかとは?


●第一話●

九才になった女の子に残された、
子供でいられる時間はあと一時間。
日時計の棒の影を気にしながら、
一個の棒つきキャンデーを男の子とかわりばんこに舐めあう。
もうまもなく、この男の子とも遊べなくなってしまうのだ。

少女から大人の女性になる証しとして、
黒いヴェールをかぶせられ男女隔離社会へと入ってゆく、
あどけない女の子の、これは人生における出家物語である。

 

●第二話●

ペダルの金属音を響かせ、
黒い服をまとった女性たちが自転車を走らせている。
その群れの中の一人の女性を、
男が馬に乗って追いかけてくる。
彼女は離婚するため、夫やその家から逃れてきたのだ。
右手に広がる大きな海、
左には砂塵舞い上がる荒野、
その間の白い一本道。
後ろからは、追っ手が次々近づいてくる。
全速力で疾走する女性、
しかし行く手には…

これは救いなき“ニ河白道図”(※1)である。

 

●第三話●

大金を手にした老女が、
若い頃の貧しさを埋め合わせるかのように、
花嫁道具一式を買い揃えてゆくのだが…
たった一つ思い出せない買い物がある。
それは昔、結婚したい男性がいたけれども、
果たせなかったという心の空白を埋めることだった。

やがて、彼女は花嫁道具と共にいかだに乗り、
大海原へとこぎだしてゆく-
心の救いを来世に期する他なしとするかのように。

その光景はまさに “補陀落渡海”(※2)であった。

 

このラストに到って、
前二話の女の子と自転車の女性にかわって
二人の女友達が老女を見送る。
そのまなざしの奥にある思いとは?

「どうか、自由と救いにみちた大悲の海であれ」と私は念じた。

この映画の女性たちの境遇を見ていて、
私にはあらためて思い起こした事がありました。

それは、仏教徒である自分が決して忘れてはならない事、
すなわち、生きとし生けるもの、
ありとしあらゆるものは、
ひとしくわが子わが一人子であるとの、
み仏の仰せであります。
み仏の大いなる救いの手は、
男女や貧富、
善悪などの別なく、
すべての人々に差し伸べられているという事です。

しかし、このみ仏の心を感じない者は、
共にみ仏の子である者どうしの、我々の間に
是非善悪の区別をつけ、
そして、み仏の救いの上にも何らかの資格や条件をもうけ、
もっともらしい理由をこじつけようとするのです。

全くそれは救いの道を塞ぐことであり、
悲しむべきことであります。
男性だから尊いのではない、
女性だから罪深いのではない。
女性が救われず、
男性のみ救われることはできない。
女性が救われないのなら、
男性もまた救われない。
み仏の救いのお目当ては、
すべての人々です。

それは、み仏にとって皆、
わが子わが一人子であり、
そこには何の分け隔てはありません。
すべての人が救われる道なればこそ、
この私というたった一人の人間
(男であろうが、女であろうが、肌が何色であろうが)
が救われるのであり、
この私一人が救われる道なるが故に、
一切の人々が救われるのでありましょう。

み仏の救いの光を、
人間のつまらぬはからいによって、さえぎってはなりません。

シンプルで象徴性に富んだこの映画の、
心地良いまばゆさと女性たちを私は忘れないでしょう。
ぜひ女性に、いや男性にこそご覧いただきたい素晴らしい映画です。
女性監督マルズィエ・メシュキニに感謝と喝采を捧げたい。

合掌
憧西房正顕

 

 

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※1:“ニ河白道”
中国唐時代の僧、善導の「観無量寿経疏」散善義にある譬え話。
群賊と悪獣に追われる旅人の目の前に、四、五寸ほどの白い一本道がある。 その右手には濁流が渦巻き、左手には火の河が燃えさかる。
行くも留まるも戻るも死。
その時、旅人の背後(東)から
「この道を行け」という釈迦の声が聞こえ、
向こう岸(西)からは
「この道を来れ」と阿弥陀如来が招き呼ぶ。
旅人は意を決し一歩をふみ出し、ついに彼岸へ至る。
群賊と悪獣はこの世の苦しみ、
水と火の河はそれぞれ貪りと怒りの煩悩に、
白道は往生を願う行者の信心に譬える。

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※2:“補陀落渡海”
補陀落とはサンスクリット語の「ポータラカ」の音訳。
南の彼方にあるとされる観音菩薩の浄土のこと。
その浄土を目指して船出することを補陀落渡海という。
渡海僧が船に閉じ込められて、
人々の救済のため、
わが身を捨てて観音浄土へ生まれ変わろうとする、
まさに捨身行であり、入水往生である。
那智の補陀落山寺は補陀落渡海の道場として特に有名。

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